原文
2014.5.20更新
『安堂ロイド』リリース记念。「木村拓哉の可能性」について考える。
木村拓哉は、何を放っているのか 日本人で木村拓哉さんを知らないひとは、ほとんどいないと思います。あ、なんだか、ぬるい表现ですね。言い换えましょう。ドラマや映画というものを遮断しているわけではない日本人のなかで、木村拓哉さんを知らないひとはまったくいない。これはもう断言していいと思います。
木村拓哉さんを知らないひとはいない。それは、日本の映像界のなかで木村さんが特别な位置にいるからですが、もっと、はっきり言ってしまえば、决して无视できないインパクトのある存在感を有しているからです。
日本人は木村拓哉さんを无视できない。この表现が、个人的には正しいと考えています。
ただ、この、无视できないインパクトが、多くの误解を呼んでいるような気がします。简単に言えば、こういうことです。
演じ手としての木村拓哉さんのことを、わかったつもりになっている。そのようなひとが多すぎます。知っている、つまり、存在を认识していることと、わかっている、すなわち、俳优の演技の本质を理解することは、まるで违うことなのに、わかったつもりになってしまう。逆に言えば、それほどまでに、彼の、无视できないインパクトは、魔力的です。
わたしはかれこれ20年ほど、木村拓哉さんの演技について研究していますが、いまだにうまくことばにできないでいます。木村さんの表现は决してミステリアスなものではない。けれども、そのありようについて记述しようとすると、ふさわしいことばがなく、绝句することになります。わたしなりの言い方をするならば、「木村拓哉は、绝対に、わかったつもりにさせてくれない、けれども、强烈な光を放つ俳优」ということになります。「光」は多様です。しかし、それは、わたしたちにとって、まぶしすぎるがゆえに、一元的にとらえられてしまう危険性があります。
木村さんをわかったつもりになるひとびとは、「光は光である」という先入観から、一歩も外に出ないでいるひとたちではないでしょうか。「光」はたったひとつではありません。そして、「光」はまぶしいだけではない。ただ、わたしたちの颜を照らしているわけではないのです。「光」は屈折によって、强弱が生まれ、多彩な色が浮かび上がります。まぶしがっているだけでは、何も见えてはこないでしょう。「光を见る」ためには「サングラス」が必要です。いえ、2012年5月21日に、ほとんどの日本人が金环日食を「见る」ために努力したように、たとえば「日食グラス」のようなものを用いなければなりません。
木村拓哉は、アクションを実现する 『安堂ロイド』は、「サングラス」あるいは「日食グラス」の役割を果たす伟大な作品だと考えられます。个人的には木村さんという「光」を见つめるためのテキストとしては、あの『ロングバケーション』以来の明了さを有していると考えます。わたしたちは、この决定的にして、革命的な连続ドラマを前にして、よりよく见つめる机会を与えられていると言えるでしょう。
すごく単纯なことなんですよ。
木村拓哉には、なにができるのか。
そのことを発见させてくれるんですね、この作品は。
つまり、わたしたちは全员、木村さんのことをわかっていなかった。そのことを思い知らされるんです。
たとえば、木村拓哉はアクションができる。
彼が优れた运动神経を有していることは多くのひとが认识していたと思います。ただ、厳密に言えば、运动神経のある、なし(わかりやすく言えば、スポーツができるか、そうでないか)と、映像作品のなかで「アクションを成立させられるか、否か」は、决してイコールではないんですね。映像のなかで「成立するアクション」を体现できるかどうかが重要なわけです。
木村さんは、仕草、もっと言えば、ひとりひとりの人间が有している所作に、固有性をもたらすことができる演技者ですが、そうした微细な表现とはある意味、反対侧にあるアクションというものを、ここまでダイレクトに伝えることができるんですね。『宫本武蔵』を観てしまったいまから思えば笑い话ですが、「木村拓哉=アクション」というイメージはこれまであまりなかったと思います。少なくとも、そうした机会はほとんどなかった。『安堂ロイド』で重要な点は、ふたつあります。木村さんが演じているのは「人间ではない」ということ。そして、相手を倒すばかりでなく、「やられる」「ぶちのめされる」ということです。
映像アクションの世界には、「斩られ役」という専门の职种があるくらい、「やられる」ことは难しいんですね。しかし、木村さんは実に见事に、「人间ではないもの」が「やられる」姿を、アクションとして见せています。このドラマを観たことがあるひとながら、理解できると思います。木村さんは「ロイドとして、やられている」んですね。だから、あの姿が、わたしたちのこころをつかむのです。
そこに台词はありません。说明的な颜つきもありません。しかし、ことばよりも雄弁に、表情よりも豊かに、伝わってくるものがあります。
これが、木村拓哉の「アクション」なんです。
木村拓哉は、「SF」を存在させる そして、木村拓哉はSFができる。
映画『SPACE BATTLESHIP ヤマト』は、SFというより「ヤマトそのもの」でしたが、SFということばは、いろいろな解釈ができますね。サイエンス・フィクション、スペース・ファンタジー、藤子・F・不二雄先生が言うところの「すこし、ふしぎ」などなど。わたしが、特に言いたいのは「スペキュレイティヴ・フィクション」としてのSFの可能性です。难しい言叶ですが、「空想科学の世界に哲学的要素を持ち込んだもの」が、この「スペキュレイティヴ・フィクション」が主に意味するところです。
『安堂ロイド』は、现代と未来を行き来する物语であると同时に、「あなたは谁?」というきわめて哲学的な要素が含まれていたと思います。この「あなたは谁?」という深く鲜やかな问いは、优れたラブストーリーには不可欠なものですが、この作品は、空想科学と恋爱と哲学を见事に合致させ、ひとつの皿の上で共存させた発明品だと、考えられます。こうした「SF」は、小说や童话や漫画やアニメなどではある程度可能ですが、実写作品ではとても难しいものです。
木村さんの表现は力强い。わたしにもそうした先入観がありますが、ここで彼が见せていたのは、実はパワフルなものではなかったと思います。误解をおそれずに言えば、木村さんはここで、抽象的に存在していた。ロイドは、柴咲コウさん扮するヒロインの目を通して、「人间ではないもの」と「人间(沫嶋黎士)かもしれないもの」を感じさせなくてはいけません。そのためには単に「わかりやすいロイド」、「わかりやすい黎士」がいるだけでは駄目なんです。クリアに、しかし、同时に「ふたつのもの」が存在していなければいけない。
基本的には、ロイドとしてそこにいながら、黎士がどこかにいるような表现を木村さんは达成していたと思います。というより、それがなければ、このドラマをわたしたちが観つづけることは不可能だったと思います。
最初の话に戻れば、木村さんは少なくとも、「ふたつの光」を同时に放つことができる。それぞれの「光」の强弱や色彩を変えながら、変幻することができる。だから、复数のファクターの交错によって编み出される「SF」の中心人物として、存在できるわけです。このような木村さんも、これまでわたしたちは、ほとんど目にしたことがなかったように思います。
つまり、木村拓哉は多义的である。
そのように仮定することができるでしょう。そして、この多义性のもっとも重要な点は、木村さんがヒロインの视点にすべてを托すことができる勇気の持ち主であるから、かもしれません。柴咲コウさんという、こころから信頼する共演者だったことは大きいと思います。わたしは『安堂ロイド』という稀有な一作を前にして、木村拓哉という演じ手がそもそも内在させているフェミニズムというものにも、想いを驰せたくなっています。
木村拓哉は、汲めども汲めども、汲みつくせない「光の泉」なのです。
文:相田★冬二
※このコラムは、楽天エンタメナビのオリジナル企画です。
2014.5.20更新
『安堂ロイド』リリース记念。「木村拓哉の可能性」について考える。
木村拓哉は、何を放っているのか 日本人で木村拓哉さんを知らないひとは、ほとんどいないと思います。あ、なんだか、ぬるい表现ですね。言い换えましょう。ドラマや映画というものを遮断しているわけではない日本人のなかで、木村拓哉さんを知らないひとはまったくいない。これはもう断言していいと思います。
木村拓哉さんを知らないひとはいない。それは、日本の映像界のなかで木村さんが特别な位置にいるからですが、もっと、はっきり言ってしまえば、决して无视できないインパクトのある存在感を有しているからです。
日本人は木村拓哉さんを无视できない。この表现が、个人的には正しいと考えています。
ただ、この、无视できないインパクトが、多くの误解を呼んでいるような気がします。简単に言えば、こういうことです。
演じ手としての木村拓哉さんのことを、わかったつもりになっている。そのようなひとが多すぎます。知っている、つまり、存在を认识していることと、わかっている、すなわち、俳优の演技の本质を理解することは、まるで违うことなのに、わかったつもりになってしまう。逆に言えば、それほどまでに、彼の、无视できないインパクトは、魔力的です。
わたしはかれこれ20年ほど、木村拓哉さんの演技について研究していますが、いまだにうまくことばにできないでいます。木村さんの表现は决してミステリアスなものではない。けれども、そのありようについて记述しようとすると、ふさわしいことばがなく、绝句することになります。わたしなりの言い方をするならば、「木村拓哉は、绝対に、わかったつもりにさせてくれない、けれども、强烈な光を放つ俳优」ということになります。「光」は多様です。しかし、それは、わたしたちにとって、まぶしすぎるがゆえに、一元的にとらえられてしまう危険性があります。
木村さんをわかったつもりになるひとびとは、「光は光である」という先入観から、一歩も外に出ないでいるひとたちではないでしょうか。「光」はたったひとつではありません。そして、「光」はまぶしいだけではない。ただ、わたしたちの颜を照らしているわけではないのです。「光」は屈折によって、强弱が生まれ、多彩な色が浮かび上がります。まぶしがっているだけでは、何も见えてはこないでしょう。「光を见る」ためには「サングラス」が必要です。いえ、2012年5月21日に、ほとんどの日本人が金环日食を「见る」ために努力したように、たとえば「日食グラス」のようなものを用いなければなりません。
木村拓哉は、アクションを実现する 『安堂ロイド』は、「サングラス」あるいは「日食グラス」の役割を果たす伟大な作品だと考えられます。个人的には木村さんという「光」を见つめるためのテキストとしては、あの『ロングバケーション』以来の明了さを有していると考えます。わたしたちは、この决定的にして、革命的な连続ドラマを前にして、よりよく见つめる机会を与えられていると言えるでしょう。
すごく単纯なことなんですよ。
木村拓哉には、なにができるのか。
そのことを発见させてくれるんですね、この作品は。
つまり、わたしたちは全员、木村さんのことをわかっていなかった。そのことを思い知らされるんです。
たとえば、木村拓哉はアクションができる。
彼が优れた运动神経を有していることは多くのひとが认识していたと思います。ただ、厳密に言えば、运动神経のある、なし(わかりやすく言えば、スポーツができるか、そうでないか)と、映像作品のなかで「アクションを成立させられるか、否か」は、决してイコールではないんですね。映像のなかで「成立するアクション」を体现できるかどうかが重要なわけです。
木村さんは、仕草、もっと言えば、ひとりひとりの人间が有している所作に、固有性をもたらすことができる演技者ですが、そうした微细な表现とはある意味、反対侧にあるアクションというものを、ここまでダイレクトに伝えることができるんですね。『宫本武蔵』を観てしまったいまから思えば笑い话ですが、「木村拓哉=アクション」というイメージはこれまであまりなかったと思います。少なくとも、そうした机会はほとんどなかった。『安堂ロイド』で重要な点は、ふたつあります。木村さんが演じているのは「人间ではない」ということ。そして、相手を倒すばかりでなく、「やられる」「ぶちのめされる」ということです。
映像アクションの世界には、「斩られ役」という専门の职种があるくらい、「やられる」ことは难しいんですね。しかし、木村さんは実に见事に、「人间ではないもの」が「やられる」姿を、アクションとして见せています。このドラマを観たことがあるひとながら、理解できると思います。木村さんは「ロイドとして、やられている」んですね。だから、あの姿が、わたしたちのこころをつかむのです。
そこに台词はありません。说明的な颜つきもありません。しかし、ことばよりも雄弁に、表情よりも豊かに、伝わってくるものがあります。
これが、木村拓哉の「アクション」なんです。
木村拓哉は、「SF」を存在させる そして、木村拓哉はSFができる。
映画『SPACE BATTLESHIP ヤマト』は、SFというより「ヤマトそのもの」でしたが、SFということばは、いろいろな解釈ができますね。サイエンス・フィクション、スペース・ファンタジー、藤子・F・不二雄先生が言うところの「すこし、ふしぎ」などなど。わたしが、特に言いたいのは「スペキュレイティヴ・フィクション」としてのSFの可能性です。难しい言叶ですが、「空想科学の世界に哲学的要素を持ち込んだもの」が、この「スペキュレイティヴ・フィクション」が主に意味するところです。
『安堂ロイド』は、现代と未来を行き来する物语であると同时に、「あなたは谁?」というきわめて哲学的な要素が含まれていたと思います。この「あなたは谁?」という深く鲜やかな问いは、优れたラブストーリーには不可欠なものですが、この作品は、空想科学と恋爱と哲学を见事に合致させ、ひとつの皿の上で共存させた発明品だと、考えられます。こうした「SF」は、小说や童话や漫画やアニメなどではある程度可能ですが、実写作品ではとても难しいものです。
木村さんの表现は力强い。わたしにもそうした先入観がありますが、ここで彼が见せていたのは、実はパワフルなものではなかったと思います。误解をおそれずに言えば、木村さんはここで、抽象的に存在していた。ロイドは、柴咲コウさん扮するヒロインの目を通して、「人间ではないもの」と「人间(沫嶋黎士)かもしれないもの」を感じさせなくてはいけません。そのためには単に「わかりやすいロイド」、「わかりやすい黎士」がいるだけでは駄目なんです。クリアに、しかし、同时に「ふたつのもの」が存在していなければいけない。
基本的には、ロイドとしてそこにいながら、黎士がどこかにいるような表现を木村さんは达成していたと思います。というより、それがなければ、このドラマをわたしたちが観つづけることは不可能だったと思います。
最初の话に戻れば、木村さんは少なくとも、「ふたつの光」を同时に放つことができる。それぞれの「光」の强弱や色彩を変えながら、変幻することができる。だから、复数のファクターの交错によって编み出される「SF」の中心人物として、存在できるわけです。このような木村さんも、これまでわたしたちは、ほとんど目にしたことがなかったように思います。
つまり、木村拓哉は多义的である。
そのように仮定することができるでしょう。そして、この多义性のもっとも重要な点は、木村さんがヒロインの视点にすべてを托すことができる勇気の持ち主であるから、かもしれません。柴咲コウさんという、こころから信頼する共演者だったことは大きいと思います。わたしは『安堂ロイド』という稀有な一作を前にして、木村拓哉という演じ手がそもそも内在させているフェミニズムというものにも、想いを驰せたくなっています。
木村拓哉は、汲めども汲めども、汲みつくせない「光の泉」なのです。
文:相田★冬二
※このコラムは、楽天エンタメナビのオリジナル企画です。