四
第1章 白い部屋
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形を備えたこの世界が、混沌の闇に逆戻《さかもど》りして、新しく作り直されるかと思うほど、何もかも揺れ動いている。お前の心が変らずにいて、二人がいつかこの世の廃墟の上で巡《めぐ》り合うことがあったなら、その時こそお互いは、すでに造り直されて、運命に左右されぬ、自由な、生れ変った人間と成っていよう、こういう時世を通り過ぎた者は、もう何にも縛られることがあるまいから。
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斜面に点在する白い羊たちを目で追いながら、草原の亀裂のような小径《こみち》を彼女は歩いている。空気は歴史を忘れて澄み切り、躰は転がるように軽く動いた。もしも自分が機械だったら、今は給油の必要もない。設計どおりの性能を発揮しているといえる。体内から音楽がわき上がってくるのでは、と予感するほど快調だった。
しかし一方では、彼女の大部分は暗闇の中に沈み、静座し、見るものもなく、聞こえるものもない。純粋均質な無の空間に浸《ひた》された自分と、それ以外のすべての存在の相互関連について、既に構築された数々の構成則を修正、微調整する作業に没頭していた。すなわち、意志の存在とはネットワークの成長にのみ顕在化する、という単純な予想は、未だに覆《くつがえ》されていない。
羊、羊、羊。
草原というカバーのファスナのような小径。
ごつごつと地面から突き出した石に靴底がぶつかる。
この空間、
この時間を、
自分は、どう繋《つな》ぎ止めているだろうか。
それが、この周囲に生きている羊に影響を及ぼすものにはなりえない。これほど近い位置に存在しているのに、無関係。つまり、羊は存在しないも同然なのだ。結局は、時空の局所化が招く弊害だろうか。
だが、
いずれにしても、
ここからも、今からも、
既に自己は完全に乖離《かいり》していると見なすべきだ。
すなわち、死んでいるも同然。
これほど躰が軽く、体液はリズムを欲しているのに、もはや、生を成しているとは認められない。少なくとも、ここにおいて、今においては。
緩やかな丘を登りきったところに、大きな黒い岩が露出していた。巨大な雄牛が眠っているようなシルエットだった。彼女はその岩の冷たさを知っていたが、しかし、片手を伸ばしてそれを確かめ、深呼吸をしてから躰を寄せ、そこに自分の背中をつけた。体重の何割かをあずけ、空を見上げる。
歩くのをやめても、風が少し残っていた。空気は、常に圧力の低い方へと流れる。空気に限らず、多くのものは平衡を求めて、強い方から弱い方へ、力を消すために移動する。これとは対照的に、人間は、強いところへ集まり内圧を増す。これは、人の生が元来、アンチ・エントロピィ的なプロパティを有している所以《ゆえん》だろう。あるいは逆に、強いと思われているところこそ、実は応力が低いのか……。
流れずにはいられない。
何ものも留《とど》まれないのだ。
「機嫌が良いね」其志雄《きしお》が声をかけた。
「そう」四季は頷く。「否定はしない。平均的には、そのとおり」
「君は平均的じゃないよ」
「波動の回折に関する方程式は、今一つね。モード解析の二つの新パラメータについても新たな進展はなし。どうなっているの? 螺旋《らせん》解析法の別展開は幻想だったのかしら? 単に優れた後継者がいないってことかも。でも、たったそれだけのことで、テクノロジィの進歩が阻害されて、ときには止まってしまう。あっという間に最先端技術が遺跡になるわ。集積回路なんて、そのうち模様の名前で呼ばれる。人間は、遺跡を造る蟻《あり》ね」
「清々《すがすが》しい朝だから、君の不満は、聞き流そう」其志雄はくすっと吹き出した。
「聞き流して」
「マイナな話題ばかりじゃないか、もっと、その……」
「大局的な」
「そう、大局的なテーマはないものかな?」
「ごめんなさい」四季も微笑んだ。「そうね、悪いものばかりでもないわ。さらにマイナではあるけれど、超圧縮性の数値実験に成功したグループがいるようだし、あと、動電子皮膜の技術も実用化の段階が近い。もちろん、それぞれに見所はあります。あまり興味はないけれど、まったく無視して価値を認めないというほど、悪くはない」
「捨てたもんじゃないって言うんだよ」
「人の数だけはもっと減らした方が良いわね」四季は空を見上げて別の話題に切り換えた。「わかっているのに、歩調が揃わないみたい。軍縮と同じ。つまりは、民族の頭数も武器と同じレベルってことだったのね。どこまで原始的なのかしら」
「戦争もテロもなくならない。何故だと思う?」
「貧しいから」
「相対的な貧しさは消えないよ。貧富の差は必ず存在する」
「いいえ、問題は絶対的な貧しさ」
「豊かになれば、争いはなくなるだろうか?」
「争いとは何か、という定義の問題もあるわ。押し入った強盗を警官が捕まえるのを争いと言う?」
「言わない」
「でも、強盗が武器を持っていれば、逮捕には応戦するための武器が必要になる。暴力にはちがいないわ。戦争だって同じことでしょう?」
「だいぶ違うと思うよ」
「違うと思っていることが、平和かも」
「結局、どういうこと?」
「どういうことでもない。抽象できるのは、どんなものも、あるべき位置に接近するだけで、そのものにはけっしてならない。かぎりなく漸近《ぜんきん》するだけのこと」
「不思議だよね、これだけのテクノロジィを持ちながら……」
「持ちながら?」
「未だに実現できないものがあるなんてさ」
「能力的な問題ではない。人間は、自分たちが愚か者だって信じているのよ。原因はそれ」
「そうかなぁ……。けっこう驕《おご》っているところもあるんじゃない?」
「いいえ、心の底で人は皆、人間なんてちっぽけな存在だ、馬鹿で我《わ》が儘《まま》でどうしようもない生きものなんだって考えているの。おそらく、それだけが人類の絶対的な共通認識だと思っている」
「謙虚なんだ」
「自虐的」
「控《ひか》えめな方が賢く見えるからかな?」
「哀れな方が美しいとさえ思っている」
「少なくとも誰でも、美しいことは好きなんだ」
「もっと高いところで共通点を見出すことを最初から放棄している。結局は、その卑下《ひげ》した諦めの認識からくる自己抑制に起因しているのでしょうね。特に、知識のある人間ほど、自分を愚か者だと思いたがる傾向にあるわ。何だろう……、おそらくは、多くの宗教にシンボライズされている戒《いまし》め、それとも、頭脳活動が老化によって低下することを見越した予防線の一種という可能性もあるわね」
「どうせ、いつかは死んじゃうんだっていう気持ちが、やっぱり支配的なんじゃないかな。どこまでも上りつめるわけにはいかないことは自明なんだ」
「なるべく早く悟ってしまいたいのだと思う」四季は肩を竦《すく》めて言った。
「そりゃあ、これだけは避けられないからね。運命っていうやつさ」
「悲しい不自由さ」
「うん、僕も、それは確かに悲しいと思うよ。淋《さび》しいとも感じるし」其志雄は溜息をついて、頷く。「だからこそ、それを、つまりは、美しいという感覚でエネルギィ変換している構図だと分析できるな」
「美しい、か……」四季は言葉を繰り返した。「おそらく、その無理なエネルギィ変換のプロセスで捏造《ねつぞう》された価値観ね。したがって、それを認識するのは、人間だけ」
「人工的なものだってことだね?」
「そう。一番、不可解な形容だな。実体がないもの」
「しかし、君だって、美の存在を理解することはできるだろう?」
「理解を超越している、という意味でならね。あるいは、そう、刺激を求める心理に類似しているとも思う。結局は、生を確認する行動とも関連しているのでしょうね。けっこう複雑なネットワークだわ。ちょっと幾つかパラメトリック・スタディをしてみようかしら」
「うん、しかし分析すれば、案外単純な欲求に結びついているかもしれないね。というか、意識的に結びつけてしまう気がするなあ」
「分析する行為自体が、単純化に通じると言いたいのね?」
「結論を求めることで、必ずしも安心が得られるとも思えないってこと」
「安心、危険というよりは、所有と喪失ね」
「そう……、確かに、失われるものが多そうだな」
「結局のところ、人間って、失いたいのじゃないかしら」
「失いたい?」
「自分の身を切られることが、それほど痛いとは感じないものが多いでしょう? どうしてなのか、植物も下等な動物もそう。あまり痛みを感じないようにできている。人間だけが、自分たちがそれを感じると意識している、そしてそれ故《ゆえ》に、危険を避ける努力をしていると考えている。しかし、本当にそうなのかしら?」
「痛みは、思い込みだって言うの?」
「そう。客観的に考えてみて。どうも違うように思えてくるはず。本当のところは、痛くもない、辛くもない。何故なら、死へ近づくことは、ある意味では、生命活動のゴールなの。目的を達成する行為でしょう? 後退ではない、前進なのですからね」
「喪失が美しいと感じる感情は、確かに存在する。だけど、今の論理は飛躍だと思える」
「何かを獲得したときの精神的充実は、かつてそれが獲得できなかった状態との対比として現れる。それはすなわち、それが足りなかったときの自己を正当化する動機から来るものでしょう?」
「ちょっと待って、なんだか、飛んでない?」
「ごめんなさい、ちょっと面倒なので途中を省略したの。話題を変えましょう。観察技術の未熟さから生じる思考限界は、おそらく、ごく初期のコンピュータ技術の進歩で完全に排除された。この点で、ニュートン以後のこの五百年の技術進歩は一つの到達点を迎えたと考えられている。それは良いのだけれど、さて、世界中が心配しているのは、その次にやってくる技術、次世代の科学、さらなる技術発展、そしてそれに伴うより深遠な学問領域の展開、真の文明の開化……。どう? あるかしら、そんなものが?」
「僕に感想を求めているの?」
「虹は綺麗だけれどね」
「虹?」
「どう思う?」
「その問いにきちんと答えられるのは、君だけだよ、四季」
「それに答える義務は、私にもないわ」彼女は首を傾げ二秒ほど目を瞑《つぶ》った。「無理数のように隙間を埋めていくことはできても、広がりの緻密《ちみつ》さを変えることは無理。そうでしょう? 精神世界の縮小で、擬似的に物理世界の膨張をイメージするのがせいぜいのところだわ。実につまらない」
「でも、虹は綺麗だよ」
「近づいたら消えてしまうのよ」
「到達したとしたら、どうなる?」
「難しい質問ね」四季は首をふった。「わからない」
「珍しいことを言う」
「珍しいことが、まだあって、良かった」彼女はゆっくりとその言葉を発音して、微笑んだ。「お客様に会うのが、多少は楽しみになったかも」
「どうして?」
「自分に新しいところがないのに、他人に会ってもしかたがないでしょう? そういうのは苦痛」
「それ、僕には意味がわからないよ」
「そうね、男性にはその概念がないのかもしれない。塗り分け問題のようなものなんだけれど」
「それ、よけいわからないよ」