人取り桥の合戦
天正13年(1585) 11月16日
辉宗横死事件の报复として、二本松攻略を始めた政宗に対し、仙道诸氏が连合军を结成。高仓~本宫周辺で合戦となった。
仙道诸氏は、佐竹义重を中心に、芦名・石川・岩城・白河氏他30000人。
対する伊达势の布阵は、観音堂に政宗本阵。本阵左右に留守政景、原田宗时。本阵前后・二本松への备に、国分盛重。本阵の前卫・青田原・荒井方面に浜田景隆、白石宗実。左翼游军として瀬戸川馆に伊达成実。最前线高仓城に富冢近江・伊藤肥前。その兵力8000人。
圧倒的な兵力差に、伊达势はたちまち书各个撃破の対象となった。
前田沢-人取り桥-観音堂のルートは敌方の中心势力・佐竹势に攻撃を受け、一时は本阵までも危うくなったが、鬼庭佐月らの奋戦でかろうじて持ちこたえていた。
このため瀬戸川馆の成実势は孤立する形となった。
この时の成実势の兵力は马上百骑、鉄炮300丁(斎藤报恩会・人取り桥合戦図)。中途、岩角・本宫に戦力の过半を残しおいての参戦だった。
寄骑の下郡山内记が马を乗りかけ
「観音堂の本阵は崩れた。急ぎ退却し候え」
と、成実の小旗を抜くや、歩卒に渡した。
成実は笑って小旗を夺い返し、
「退却しても破れるは必定。此処を死に场所と定め、讨ち死にすべし」
と闻かない。
老臣伊庭远江はこの时、73歳。重い具足を嫌い、钵巻姿でしんがりを勤めた。奋戦するうちに重伤を负い、死亡している。
山を駆け下りた成実势は进退を缲り返しながらも、人取桥周辺で政宗本阵を攻撃する佐竹势に横から痛撃を与えた。
政宗自身も敌と直接戦う激戦の中、息を切らせた马に水を与えようと川へ入ったところ、敌の铳撃を受け、马の口取りが死亡する。そこへ成実が手势2-30人とともに来合わせ、団扇で政宗の马の尻を叩いて川から追い上げた。
鬼庭佐月らの奋戦もあり、木戸を3度まで破られながらも、辛うじて本阵を守りきった伊达势であったが、前卫はすべて抜かれ、「明日の主戦场は本宫」と后退を余仪なくされる。成実もこの日の働きに対し、政宗から感状を赐り、ねぎらいを受けるとともに明日は留守政景をともに本宫への移动を、と命じられている。
しかし、一夜明けた戦场に敌の姿はなかった。
连合军の主将・佐竹义重の国元に、江戸氏と里见氏が侵入。佐竹义重はあっさり阵を返し、中心を失った连合军も解体・帰国した。
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