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【资料】伊达成実合戦记~(日语,不过基本都看的懂囧)

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合戦
小手森城の合戦
人取り桥の合戦
渋川城の合戦
玉井草调仪
安积合戦
郡山対阵
摺上原の合戦
佐沼攻め
文禄の役
大阪の冬の阵
大阪夏の阵
野辺沢城受取
工作
猪苗代家内応工作
塩松家中内応工作
二本松家中内応工作
大内定纲帰顺工作
田村领帰顺工作
作事
二本松城修筑
亘理城修筑
江戸城石垣工事御手伝
忽然发现好多战役都完全不知道...= =|
重大战役,在下面楼层逐层介绍~


1楼2010-04-07 16:32回复
    小手森城の合戦
    天正13年8月23-27日
       天正13年8月。大内定纲の臣・青木修理の内応を得た成実は、その旨を政宗に注进。
    政宗は直ちに大内退治の军事行动を起こす。
       まず、小梁川盛宗・白石宗実・浜田景隆・原田宗时を成実に遣わし、成実はこの4将を苅松田(青木修理居城)の近所・饭野に在阵させる。成実自身は立子山に布阵。
    政宗も8月12日には福岛へ马を出す。
    ここで塩松の絵図を青木修理より得た政宗は、川俣へ阵を移し、薇ケ平で田村清顕と対面。ともに大内定纲が笼もる小手森城を攻める。23日に攻撃开始予定だったが、雨天のため开戦は翌24日となった。
       さて、小手森城を伊达・田村军が包囲したが、大内の援军に駆けつけた芦名・畠山の势が両军を包囲。
    大内势は城に笼もって一歩も出ず、当初合戦は先阵となった畠山势と伊达势の间で展开した。
    田村势は东から、伊达势は西から働くが、间に大山があって両军は合流できない。
    政宗が旗本と不断鉄炮にて畠山势を攻撃し、伊达势优势に展开するも昼过ぎに互いに兵を返した。
    この夜、大内定纲はひそかに小浜へ脱出。この后、小手森の守将は小野主水・荒井半内となる。
    伊达军も5里ほど引き上げ、野阵。夜袭を警戒したが恙无く夜が明けた。
       25日。
    この日は小竞り合いで一日が过ぎる。援军と城内との间に通路があり、そのために坚固なのであろうと推测された。
       26日。
    再び城への攻撃を开始。片仓景纲の提案で鉄炮をつるべ撃ちするが、城内は取り合わない。
    3泊目の野阵となり、今后の攻撃方针について军议がもたれた。
    成実は自军を城の南・竹屋敷に移し、田村势と合流、援军と城内の通路を绝つことを提案する。
    政宗は「竹屋敷に移れば、援军・笼城军両口の合戦になる」と案じるが、成実は「田村军との合流を优先すべき」とする。両口の合戦は成実势、田村势が引き受ける。敌の援军は地形が悪いゆえに大きな働きはできないとの心算である。
    原田休雪はそれに対し、「そこまで危険を冒さずとも、长期间の包囲により落城する」と慎重な意见。
    両方の意见に支持者があったが、众议は一决せずそのままお开きとなった。
       27日。
    明け方、成実は政宗に无断で阵を竹屋敷に移动。留守政景がこれに続き、报告を闻いた政宗は全军を竹屋敷方面へ移させる。
    そこへ城内より石川勘解由というものが、成実の郎党・远藤下野と话をしたいという。この二人は日ごろより亲しい仲である。
    成実が远藤下野を遣わすと、
    「援军との通路を封锁された上は、落城疑いない。成実を頼んで城を明け渡し、退散したい」
    とのことである。
    报告を受けた政宗は、「伊达家へ降るならばOK」との回答。
    しかし石川勘解由ら笼城势は「退散するのは命乞いのためではなく、大内备前と灭亡をともにするためである」と小浜への退散を望む。
    政宗はこれを拒否。敌の望みは図々しい。手并みのほどを见れば降伏するだろう、と総攻撃を开始する。
    困ったのは使いのため城内に入っていた远藤下野である。味方の猛攻の中を小旗を振りながら决死の覚悟で脱出。辛うじて阵に帰り着いた。
    この后、成実の阵より城に火をかけると、强风の日であったので城のあちこちが燃え始める。そのためか笼城势は意外に早く抵抗を失い、落城する。
    政宗はなで斩りを命じ、男女はいうに及ばず、牛马の类まで切り舍てられた。
    诚征日语帝...这看得真是太销魂了....


    2楼2010-04-07 16:33
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      人取り桥の合戦
      天正13年(1585)   11月16日
      辉宗横死事件の报复として、二本松攻略を始めた政宗に対し、仙道诸氏が连合军を结成。高仓~本宫周辺で合戦となった。
      仙道诸氏は、佐竹义重を中心に、芦名・石川・岩城・白河氏他30000人。
      対する伊达势の布阵は、観音堂に政宗本阵。本阵左右に留守政景、原田宗时。本阵前后・二本松への备に、国分盛重。本阵の前卫・青田原・荒井方面に浜田景隆、白石宗実。左翼游军として瀬戸川馆に伊达成実。最前线高仓城に富冢近江・伊藤肥前。その兵力8000人。
      圧倒的な兵力差に、伊达势はたちまち书各个撃破の対象となった。
      前田沢-人取り桥-観音堂のルートは敌方の中心势力・佐竹势に攻撃を受け、一时は本阵までも危うくなったが、鬼庭佐月らの奋戦でかろうじて持ちこたえていた。
      このため瀬戸川馆の成実势は孤立する形となった。
      この时の成実势の兵力は马上百骑、鉄炮300丁(斎藤报恩会・人取り桥合戦図)。中途、岩角・本宫に戦力の过半を残しおいての参戦だった。
      寄骑の下郡山内记が马を乗りかけ
      「観音堂の本阵は崩れた。急ぎ退却し候え」
      と、成実の小旗を抜くや、歩卒に渡した。
      成実は笑って小旗を夺い返し、
      「退却しても破れるは必定。此処を死に场所と定め、讨ち死にすべし」
      と闻かない。
      老臣伊庭远江はこの时、73歳。重い具足を嫌い、钵巻姿でしんがりを勤めた。奋戦するうちに重伤を负い、死亡している。
      山を駆け下りた成実势は进退を缲り返しながらも、人取桥周辺で政宗本阵を攻撃する佐竹势に横から痛撃を与えた。
      政宗自身も敌と直接戦う激戦の中、息を切らせた马に水を与えようと川へ入ったところ、敌の铳撃を受け、马の口取りが死亡する。そこへ成実が手势2-30人とともに来合わせ、団扇で政宗の马の尻を叩いて川から追い上げた。
      鬼庭佐月らの奋戦もあり、木戸を3度まで破られながらも、辛うじて本阵を守りきった伊达势であったが、前卫はすべて抜かれ、「明日の主戦场は本宫」と后退を余仪なくされる。成実もこの日の働きに対し、政宗から感状を赐り、ねぎらいを受けるとともに明日は留守政景をともに本宫への移动を、と命じられている。
      しかし、一夜明けた戦场に敌の姿はなかった。
      连合军の主将・佐竹义重の国元に、江戸氏と里见氏が侵入。佐竹义重はあっさり阵を返し、中心を失った连合军も解体・帰国した。

      


      3楼2010-04-07 16:37
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        渋川城の合戦
        天正14年(1586)1月1日  
        人取り桥の合戦后、成実は八丁目城の出城となっていた渋川城(安达町渋川)で、前线警戒をしながら越年した。
        渋川城は前年12月11日の火灾で全焼しているが、突贯工事(推测)で前线基地としての机能を维持している。
        そこへ鹿子田和泉率いる二本松势が斥候に出てきた。正月のこととあって気が大きくなったか、渋川城の小者たちは武装もせずにばらばらと応戦したところ、小山の后に伏势が待ち伏せしていた。当然のことながら、瞬く间に劣势となり、事情を知った成実はあわててきちんとした兵を救援に出した。
        羽田右马之助は近所へ使いに出ていた帰りにこの合戦に出くわし、そのまま参戦。弟の志贺大炒左卫门も奋戦し、二本松势が退却した。
        成実はこの时讨ち取った首を政宗に献上している。
        


        4楼2010-04-07 16:37
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          摺上原の合戦
          天正17年6月5日
          天正17年6月1日、伊达成実が年初から内応交渉を再开していた猪苗代盛国が芦名と事切れに及んだ。
          これに応じて政宗は、新田义纲・原田宗时を桧原へ、伊达成実・片仓景纲を猪苗代へ派遣した。
          芦名盛重は当时、岩城・佐竹・相马とともに田村领への进攻を企図しており、须贺川に驻在していたが、猪苗代盛国离反の急报に接し、6月3日に本拠の会津黒川に驰せ戻る。
          相马势はこれに先立つ5月中旬に北辺の驹ヶ岭城・蓑首城を落とされており、动きのままらならない状态だったが、佐竹义重は中通りに、岩城常隆は浜通りに留まり伊达军主力を牵制する姿势を取った。
          芦名盛重は帰还翌日には猪苗代へ出立、磐梯山麓の猪苗代盆地に集まった猪苗代・成実・片仓势を狙う。伊达军が后诘をしなければ猪苗代方面军は孤立无援のまません灭され、また后诘めをすれば中通りの佐竹势に挟撃される危机である。
          政宗は猪苗代への后诘めを行おうとするが、傍近くの重臣のみならず、肝心の猪苗代方面军(成実・片仓)に反対される。
          しかし、政宗は猪苗代方面军の意见を「援军要请」と伪り、6月4日深更、自身と主力を强引に猪苗代へ移动させ、后诘を行った。佐竹・岩城のせまる田村境目の城にわずかな守备军を残すのみである。
          6月5日、朝より合戦开始。
          当初は芦名军优位に合戦が推移し、先阵・猪苗代队、二阵・片仓队が打ち破られる。
          


          5楼2010-04-07 16:38
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            大阪夏の阵
            元和元年(1615)、大阪夏の阵に成実は出阵する。
            この戦いで伊达势の奋闘が伝えられているのは、片仓重纲の覚书が残されている、いわゆる「道明寺の戦い」である。
            伊达家治家记录の记述はほぼこの重纲覚书及び各家に伝わる首帐に寄っているものと思われる。
            合戦の详しい経纬は、とりあえず他のサイトに譲り、ここでは夏の阵の间に伝えられる成実の逸话を绍介する。(「逸话」であって史実であるとは限りません。と、いうかそれはアヤシイやろ?   というものも)
            白石宗贞と先阵を争う   (白达记)
            大阪の阵、道明寺の戦いの前に、白石宗贞の小旗持ちが、成実の小旗持ちを追い抜いた。
            成実「そこもとの九曜纹は前に出すぎている。后に下がれ」
            宗贞「戦阵でカッコつけてる场合か」
            成実「今日の先阵は侬だ。闻き入れぬなら、殿に申しあげるほかない」
            宗贞「あなたもご存知のとおり、我が白石家の旗は、宗実の代からよその旗の后になったことはない」
            で、互いの兵士が刀に手をかけ、あわや、というところで、宗贞の重臣が
            「こげなときにそんだらことしとる场合かや」
            と双方を说得した。
            松本若狭を鼓舞する   (贞山公治家记录)
            政宗の旗本の松本若狭というものがいた。伊达势が我先にと手柄をたてに向かうところを、この若狭は动こうとしない。そこで伊达成実が
            「さっさと戦に参加して手柄たててこい!」
            と励ました。
            若狭が、
            「いや、殿の下知を受けてませんから」
            と远虑するので
            「あーもー、手柄たてたら文句ないって。俺が责任とるから行って来い!」
            とさらに励ますと若狭はようやく动いた。
            果たして若狭は手柄をたてて、政宗に褒められました。
            道明寺古战场远景


            6楼2010-04-07 16:39
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              不错的资料
              如果能翻译成中文就更好了
              希望以后贴吧会有日文帝的光顾吧


              7楼2010-06-09 19:10
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                确实都看得懂囧


                8楼2011-08-29 11:44
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